呉散歩(日米最後の戦艦展他)

2015年12月度のランカー報酬にてこんなものが配布されました。

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「Iowa級戦艦の主兵装として米国で開発された新型三連装主砲です。」と。
であるならば次のイベントでの報酬艦はアイオワ級戦艦の知名度の高いミズーリでないか。
そういえば大和ミュージアムでの特別展示はミズーリではなかったか、と呉にカレーを食べに行くついでに寄ってきました。

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「日米最後の戦艦展」
太平洋戦争終戦70年を記念して戦艦ミズーリ記念館の協力で開催されています。
開催期間は伸びに伸びて2016年5月8日までになっています。
この日も大勢の人が訪れていました。

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ミズーリについて外せないのが沖縄戦でのこの一幕。
特攻機の攻撃です。
説明は淡々と書かれていましたが、当時のアメリカ軍がどう感じていたのかを読み取るには不足。即ち、特攻がどれだけの効果を上げていたのかを知っていないとこの一場面だけでは判断のしようが無いのでは、と。

ざっと特攻について記してみます。

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まず、戦果はこちら。

撃沈
護衛空母3、駆逐艦13、その他艦艇7、上陸用・輸送用24。

撃破
空母26、護衛空母18、戦艦15、巡洋艦22、駆逐艦109、その他艦艇65、上陸用・輸送用54。


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成功率がこちら。

フィリピン戦 23.5%
沖縄戦     7.9%

フィリピン戦でこそ猛威を振るった特攻でしたが、対応され沖縄戦では戦果は減少。7.9%となりました。

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沖縄戦ではこんな感じで警戒網を作り迎撃する体制を作り上げていました。これだけの対応をしても防ぎ切ることが出来なかったことが後にイージスシステムを創りだす一因となったそうです。

そして、数値だけではなくこの時アメリカ軍はどう感じていたのか。それは「JAPANESE AIR POWER 米国戦略調査団報告」から引用してみるとこんな感じです。

”日本が海上艦船にたいする使用に考案したもっとも効果的な兵器が、自殺機であった。四四ヵ月つづいた戦争のわずか一〇ヵ月間に、アメリカ軍艦損傷艦総数の四八・一パーセントが、そして沈没艦総数の二一・三パーセントが、自殺機による戦果であった。
 しかし、自殺攻撃はたかくついた。
 自殺戦術を実施した一〇ヵ月間に、陸海両空軍は二五五〇機を犠牲にして、連合軍艦船の各種タイプに四七四機を命中させた。有効率は一八・六パーセントだった。”

損害の大半が特攻による攻撃。特攻は無駄死にではなくアメリカ軍にもっとも効果的と言われるほどの攻撃方法だった、と。それを踏まえて最初のミズーリに向かってくる特攻機。それを目撃した兵士の恐怖はいかばかりのものがあったのか。ガイドブックによると

”激しい対空砲火の煙と水煙のなか、2機の零戦が第四任務群の背後にあたる南東から侵入、そのうちの一機が「ミズーリ」の右舷に向かって海面すれすれに接近し、船体後部右舷に激突、炎上しました。消火作業の後、「ミズーリ」乗組員たちが見たのは、零戦の残骸と特攻隊員の遺体でした。特攻攻撃にさらされていた乗組員たちは、恐怖と憎悪の極限状態にありました。ホースの水で遺体を水中に落とそうとする乗組員もいました。”

こんな感じだったそうです。この後はこうなります。

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”しかし、「ミズーリ」艦長ウィリアム・キャラハンは、「パイロットに敬意を表して水葬に付す」と命令を出しました。乗組員から不満の声が上がりましたが、艦長の指示の下、遺体は医務室へ運ばれ、帆布の袋に収められました。遺体の当直を命じられた通信兵たちは、白いシーツに赤い丸を描き日章旗を作り遺体を包みました。
 12日午前9時、「ミズーリ」甲板上には艦長以下多くの乗組員が整列しました。士官が敬礼するなか、木製の担架に載せられた特攻隊員の遺体が、舷側から海中へと静かに葬られました。”

アメリカに余裕があったからこその芸当でしょうか。もしくは余裕があると見せるための艦長の芝居だったのかも。なんにしても戦中にあって格好いい一幕です。

この特別展示にはこの時の零戦の残骸の一部が展示されているのですが、良く戦艦ミズーリ記念館が承諾したな、というのが本音です。この展示の目玉はずばりこれだったと思うのですが、他の方がどう感じたのかはちょっと分からなかったですね。

後はミズーリに向かって進む零戦の動画も公開されていました。
他にガイドブックに載っていない展示されていたものは大和とミズーリの模型。撮っておきたかったのですが、この展示撮影禁止だったので眺めるだけでした。

後、ミズーリの戦史が書かれたボードもあったのですが、こちらはガイドブックには無し。ざっと記しておくと

1945年 1月からずっと連戦。
    9月に東京湾にて降伏文書調印式の舞台に。
    10月 ニューヨークに帰投。
1946年 4月 ギリシャに。
1947年 8月 リオデジャネイロに。この時期アメリカ軍で任務を持った唯一の戦艦に。
1950年 1月 退役準備。
    8月 朝鮮戦争勃発。現役に。
    9月 仁川上陸作戦。
1951年 10月 中国朝鮮戦争参戦。以降終戦まで地上部隊の支援砲撃他で転戦。
1955年 2月 退役。

1985年 5月 再就役。
1991年 1月 湾岸戦争。
1992年 3月 退役。
1999年 1月 博物館として公開。

コストが嵩むということで他の戦艦が退役する中最後まで残ったのがこのミズーリ。朝鮮戦争の後は退役かと思ったら30年の時を経て再び現役に。近代化改修マシマシで太平洋戦争当時とは全く別の姿になったとはいえ40年も運用出来るとは。もし、大和が戦争を超えて残ったとしたらこれだけの長い期間運用出来たのかというのが気になります。

大体の資料はガイドブックに載っているので売店で買ってくのがお勧めです。
他に目を引いたネタはこれでしょうか。

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他の資料でも見ることが出来るとは言えやはり気になりました。大和ミュージアムに居たのは小一時間程でした。この日はまずカレーを食べてからの寄り道で行った店が利根本店です。

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カレーだけなら記事にするまでもないかと思っていたのですが、特別展について色々調べてみたならネタになりそうだったので一本書いてみました。この項はこれで御終いです。
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潮神社へ【艦隊これくしょん】

人吉を通るに当たって行っておきたい場所がありました。それが潮神社。

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こちらの娘さんに縁有りか、と。艦これ提督の中には心当たりのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。私がこの場所を知ったのはこのページを見てから

【艦これ】潮ちゃんのおっぱいに由緒正しい理由があったなんて…

これは行くしかない、と九州遠征で最重要寄り道地点として挑みました。まずは場所から。
上のページでも詳細な場所は記されておらず、Googleマップで調べても出てこない。当日くま川鉄道の終点湯前駅に着いて慌てました。こんな時は聞き込み、ということで湯前町観光案内所に行ってみるとここから数km離れた温泉施設の一角にあるとの事でした。もらった地図が結構いい加減で探索の結果どうにか到着。



こんな所でした。無人の神社です。

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脇の道に入ってトイレの横の下り階段を進むとこんな感じです。

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上の窓の部分に近づくとこんな感じ。乳房を象ったモノが飾られています。

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正面はこんな感じ。

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張り紙を拡大。

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中に入ります。

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潮神社です。

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アレを拡大するとこんな感じ。
圧倒されつつ撤退しました。この項はこれで御終いです。

熊本-鹿児島の記事に戻ります。

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海上自衛隊第1術科学校にて【鑑これ】

艦隊これくしょんのアニメのおかげで久しぶりに江田島へ行きました。海上自衛隊第1術科学校に入るのは実に数年ぶり。前に訪れた時は鑑これのかの字すらなく、少々歴史をかじった程度での見学でした。前回行った時に参考にしいていたのはこのフラッシュでした。久しぶりに見ましたが、後半の死の行進が見ていて辛すぎます。



尚、鑑これの動画でも同じ流れの作品があったりします。こちらでもきついものがあります。



今回は鑑これに付随?する資料を眺めていくうちに知識が増えたため展示してあるモノを見て感じた事は前回とは異なったものとなりました。教育参考館にはどんなものがあるのかを一部のみを紹介してみます。

まずは館の外にも展示のある駆逐艦「雪風」から。

・「雪風」の舵輪と錨

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幾多の戦線をくぐり抜け終戦まで残った強運の船。戦後は復員船として15回遂行。後に戦後賠償鑑とされ中華民国へ譲渡。一戦を退き日本に返還運動が起きるものの夏の暴風雨によって大破し日本へ戻ることは出来なくなる。碇と舵輪のみ日本に戻ってきて今は舵輪が参考館の中、錨は参考館の外に展示してあります。

参考館の中は撮影禁止なのでコメントによる紹介で進めます。

・「飛龍」山口多聞少将の戦闘帽

ミッドウェー海戦時の二航戦司令官。赤城加賀蒼龍が被弾し残った飛龍にて反撃。一矢報いるも飛龍も大破炎上。その折に船から降りずに飛龍と共に沈みます。脱出する部下に形見の品はありませんかと問われ被っていた帽子を渡します。その帽子が紆余曲折あってここに展示されています。

・「矢矧」の12cm高角双眼望遠鏡

レイテ湾海戦で損傷した艦橋の12cm高角双眼望遠鏡が曲折を経てこちらへ。性能の良い船で多数の魚雷や爆弾直撃、至近弾をくらっても長らく持ちこたえた、と紹介してあります。

・「青葉」御紋章

レイテ沖海戦で大破し、呉で本格的修理を行う予定であったが、あまりも大きすぎる損傷のために修理の見込みが立たず、呉工廠近くに繋留放置。1945/7/24の呉空襲で大破着底。そのままで終戦を迎え後に解体。御紋章は江田島へ、主砲砲身の尾部が大和ミュージアムに展示してあります。

・「大和」御紋章の写真、主砲の弾

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大和の沈没地点に潜って撮影された写真です。NETで調べてみましたが意外と少なく、同じものはありませんでした。外には主砲の弾が展示してあります。

・93式酸素魚雷

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個人的に「北上」さんの代名詞になっている魚雷。他にも92式、91式が展示してあります。

今回は二回目ということで駆け足で全体を眺め、それから戻って眺めなおすという行動に出ました。一度外に出て案内の方に話を聞いてみると「大体の人が時間内に見終わらず遺書の所位で終わってしまう」等の事が聞けました。この後は最初の待合室にて見学終了になります。ちょっと面白いのがこの敷地内にあるポプラ。扱っている代物がちょっと面白いので帰りに覗いてみることを推奨します。




この項はこれで御終いです。

戦艦大和・武蔵の進水式展

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既に一ヶ月も前のイベントなのですが行ってきたので簡単に記述してみます。
広島は呉市の大和ミュージアムにて戦艦大和・武蔵の進水式展 という企画展が行われました。あまり興味がなかったのですが最終日に休日となった為行ってきました。感想は

・ここで長門の軍艦旗を見れるとは思わなかった。
・予想以上に駆逐艦の進水式の記念品が多くて堪能した
・進水式の再現CGはかなり微妙。
・奥の模型力入れすぎで満足。

順番に行きます。

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まずは館内の概要を。通常の展示とは別料金で特別展時の中へ。一部屋の中に進水式の記念品、資料が展示されています。奥の壁の展示されているのが長門の軍艦旗。その下の壁に沿って数隻の艦艇の模型が展示してありました。後、この画像には写っていませんが、浸水式の動画を繰り返して放送しているモニターとそれを見るための椅子が配置してありました。

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まずこの長門の軍艦旗。【一般】アメリカ軍士官は何を思いそれを持ち帰ったのか 長門の軍艦旗を巡る数奇な運命。この辺りを読めばほぼ理解出来るのではないでしょうか。私は石坂浩二さんが買ったまでは知っていたのですが、今はここ呉の大和ミュージアムに寄贈されていたとは知りませんでした。

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次は多数ある記念品の数々を。駆逐艦の分は大東亜戦争に出てきた分はほぼ全て登場したようで撮影に手間取りました。問題は室内撮りでガラス展示ということで光と自身が写ってしまうのが困りものでした。
こちらは鳥海。鑑これのおかげで艦名が分かるのが面白いものです。いくつか紹介しておきます。

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高雄

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蒼龍

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麻耶

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利根

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最上

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那智

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長門

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陸奥

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そして明石。鑑これをやっていなかったらどんな船かわからないままだったと思うと感慨深いものがあります。

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他にも現代の艦艇の分も展示されていました。こちらは護衛艦ふゆづき。客船等もあって見て回るのにかなりの時間を要しました。

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そして周りに展示してあった大きめの模型。テンション上がったのでガラスと屋内という悪条件に向かっていろいろ試行錯誤で撮ってみました。望遠を駆使してみましたが悪くない。

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こちらの方も多数の人が立ち止まって見ていました。この項はこれで御終いです。
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広島在住の自転車乗りです。どうにかオタク続けてます。

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